昭和40年4月29日 夜の御理解



 大きな信心には行き詰まりがないと。確かに大きな信心には行き詰まりはない。大きな信心とはどう言う様な事かというと、一切を任せきった生活。まかせきった信心。神様におまかせしきった生き方。これが私は大きな信心と。だから行き詰まりがないでしょう。右の方ぞはいと。左の方ぞはいと。いうて行きゃいいんですから、行き詰まる筈がないです。回れ右ぞと言われたら、はいと言うて回れ右すればいい。
 それこそ自分が真っ直ぐこう行きたい、こう行きますようにとお願いするような信心では神様が回れ右と仰ってっも、それが大変苦しいことに感じられる。まかせきった大体信心生活とは、おまかせの生活だと私は思う。ですから限りなく素直にならなきゃならん、限りなく自分をなくする稽古を、しっかりその土台として、基礎としてしなければならんという事が分かる。
 そういう意味で勝彦なんかは、今そのおまかせの生活の基礎を作って居る様なものだと。自分の感情とか、自分の思いというものを虚しゅうしている。自分というものを虚しゅうする事に一生懸命である。そういう意味で尊い修行をさせて頂いておるなと私は思うんです。なぜって自分の思いにならないでしょうが。ですからそれを結局自分を虚しゅうする稽古、神様におまかせした本当の信心生活、しかも豊かな大きな信心の基礎が私を虚しゅうするということ。
 虚しゅうしなければ素直にいわば、右だ左ださあ回れ右だと言われるときにその通りになれない。だから大きな豊かな信心。その内容としてこれからどう言う様な信心をさせて頂いたらよいかと、ということはその内容として自然を尊ばせて頂く、成り行きを大事にしていく信心をせなきゃいけん。その内容として。まぁ例えば家族のものでいうならば神様まかせと、例えば私が金光様から頂いております御教えのように、氏子が神様まかせなら神様も氏子まかせになると仰せられますからと。
 だからこういう所までです、本当この氏子は神様まかせになる氏子だと見極めがついた時、神様はまた私共のために私共まかせになって下さる。もう私はいっぺんまかせたけん、私はにへんまかせたけんていうことじゃいかん。もうこの氏子は芯から根から神様まかせになる氏子であると神様が見極めなさった時に、神様は氏子まかせになって下さる。例えば私が神様まかせであると、そういう信心生活が出来る様になったと。神様がそれを段々それを認めて下さる様になった。そこからいわば私まかせに神様がなって下さる姿が、例えば今現在の椛目の姿である。
 今日なんかはそれを特に感じましたですね。17日の久留米の御大祭のあとに、今日の総合委員会の準備委員あって、そしてもう瞬く間にそのあっちこっちに連絡がついて、して今日見えておるここいっぱいの人たちも例えば秋永先生が言っておりましたように、みんなが集まらなかったことが残念だったっててまあ言ってましたけれど、みんなで集まったっ今日は何もかもできません。大祭のようになってしまう。やはり、ここいっぱいの人達でちょうど良かったのです。
 しかもみえておったというのが、もう総代幹部はゆうに及ばず、その家族の方達までが家内が主人がやはり次々とみえて、これから例えば今日の人数だけが本当に打って一丸となって、この御造営の推進となり推進力となり、力になったら大したことだと私は思う。同時に椛目の場合、役割も適材適所である。その人材の配り方も素晴らしいけれど、そういう人材が椛目に準備してあるところが素晴らしい。
 だからそういう人達がです。本当に一つこの際神様まかせになられて、おかげ頂いていかれたらどんな素晴らしいことになるだろうかと私は思う。お互いの信心がです、ただ成程日々も神様のおかげでこうやって生かしのおかげを頂いているのであるから、神恩を悟らせてもらい、神恩に対し奉って報謝の生活。神様有難う御座いますという報謝の生活。その神恩に報いるてだてとして、御造営にということも有難い尊い。
 けれどこれだけではつまらん。せっかく惜しい。こういう機会にです、私はそういう大きい信心というものを、身に付けて行きたいと思う。その大きな信心とは、いよいよ神様まかせになること。ほんなら神様まかせとは、どういうことかというと、親先生まかせという事である。神様まかせは親先生まかせと。船は帆まかせ風まかせ。神様まかせは親先生まかせであると。
 あれだけのたとえば人材の方達がです、色々討議もしましょう、愈々練り合いも致しましょう、愈々しかし結論のところはお取次ぎを頂いて、親先生右にしたら良いでしょうか、左にしたら良いでしょうかと。それは左がよかばい、右がよかばいと。例えば言うて頂くまにまにみなさんが動かれるようなことになる。そういう生き方が私は神恩報謝のために御用させてもらうのではなくてです、そういう大きな信心を身に付けさせて頂くチャンスであり、機会であるというふうに私は思うのですね。
 その神様まかせであるという、ならその事だけ親先生まかせというのではなくてです、その内容として成り行きを尊とばしてもらい、自然に起きて来る事を合掌して受けていき、成り行きを尊ばして頂いての内容でなかなければならないと。どうでもひとつ椛目信心を体得するならこういう所は先ずここなんだ。まず第一に自分を空しゅうするということ。自分は右がよいと思うけれど、左がよいと思うけれども。
 今日なんかお弁当携帯でといいござったからみんなお弁当携帯しておられたけれどかも、中にはお弁当持ってみえておられない方があった。そこで私がおにぎりを作れとこういう。もう裏ではそのつもりでちゃんと御飯ができておった。で家内が申します、茶碗でいいでしょうもんと私はそれに返事をすることすらしなかった。ああいう時にです、はいということになったら私はそれが親先生まかせだと思う。
 まぁ結果によってはおにぎりになっておりましたですね。だからちょっと考えたら先生がああ言うよんなさるけん、おにぎりにしようという事だっただろうと思います。あれに茶碗にしとってどれくらい煩わしかったか、例えばお茶碗で御飯食べながらあんなお菜つまんで頂くようなできん。例えばそういう些細な事の中にもね、私はいつも自分を空しゅうしとかないけん。茶碗で出すごとしとったのに、せからしかまたおにぎりを握らなならん。せからしかと。というようなことではです。
 これはもう神様まかせではない。例えば渋々するような事じゃ神様まかせではない。神様がああ仰るから、先生がああ言うてあるからという、だからという素直な心というのがです、私は信心の稽古させて頂く者のいわば師匠であり、頼りになければいけないと。ね、大きな行き詰まりのない信心、それはおまかせの生活。神様におまかせしきった生活。ここんところを私はおかげ頂いていかなければいけないと。
 一切をおまかせする、身も心もおまかせする。それで素直な心が要求される。自分を空しゅうしておく事を要求される。いわゆる我情我欲を取る事を要求される。難しく言うと。その自分の思いと言う様なものを、自分の我情我欲と言う様なものを空しゅうしとかなければ、それでもおにぎりというときにはい???ときにも、もっと例えば難しい、先生ああいいよんなさるけれどあれでいいじゃろうかと。
 こげなこと???しとってよかじゃろうかと言ような中にもです、もうカメに乗ったいわば浦島さんと同じこと。海の真ん中に出ておるときでもです、ほら波が荒うなってくると。これは親先生の背中に乗っとってよかじゃろうか、大丈夫じゃろうか。というて親先生の亀の背中から降りてご覧、どういう事になるか。溺れてしまわなきゃならんじゃないか。どんな深い所にどういう深い所にです、連れて行かれてもいわば親先生の甲羅にしがみついて初めて竜宮城に到達することが出来る。
 ところがそういうところがあるのじゃ、浅い時には、は親先生私は任せになってからもう親先生まかせになっておけば間違いないと、そりゃまだ飛び降りたっちゃ死なんところでは皆んなそげん言うやろう、ところが段々深いところに亀が連れて行く、波が荒うなってくる。もうそれこそそこで立たっつちゃ、背どん届くだんじゃないという所になってくる時に不安が出てくる。
 このまま親先生まかせになっとってよかじゃろうか。神様まかせとはこういうことなのか。思うようなことがあるけれども、そこをいよいよ私は貫かせて頂く。そこに私はいよいよおまかせしきった生活の訓練がありがたいという体験を頂くことが出来る。そういう私はおまかせの生活、おまかせの生活というのは実に安易だっていうか、もう呑気にしとっていいかというとそうではない。
 内容としてはです、成り行きを大事にさしてもらい、自然を尊ばしてもらうための頂くところの生活、そこに神様がです、いよいよ氏子まかせになって下さる基礎といのが出来る。氏子が神様まかせなら 神様が氏子まかせになるとおうせられますから。例えば今日までの御造営の経過を見ておってもです、成程神様が氏子まかせになってござるるなぁという事実を振り返ってみると、それを感じることが出来る。これからの御造営が、いわばここ半年なら半年かかるとする、まあこれからは大変である。
信心の御造営、信心の御造営というけれども、どういう信心を御造営になっていかなければならんかというと、いよいよ私は自分自身のおかげを頂いておることのです、お礼のしるしにおかげを頂かして頂くのも有難いけれども、それよりもこの際いよいよ信心の造営とはそういう素晴らしい信心をです、神様まかせのいわば本当の意味での信心生活のできれる、神様まかせにならして頂ける信心が造営される。その内容としていよいよ成り行きを尊ばしてもらう。
 成り行きを大事にさしていただくという内容。????ところの信心の造営ができるときです、椛目の信心の御造営ができる時にはお互いの心の中に信心が造営されておる。それが神様またその氏子まかせになって下さるような働きの場が銘々の上に頂ける。それをお徳という。さぁこういう時だと今お徳を頂けるときはないと言うておるだけではいけん。只今申しますような信心の内容として頂いていこうとする願い、意欲それが大事じゃないかと思うんですねぇ。おかげを頂きありがとうございました。